ヘルシンキ 生活の練習
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発行 2021/11/16
もしかしたら、できるかぎり自分の努力で解決しようという発想が間違っていたの かもしれない。自立とは他人に頼ることだ、と学生時代に教えられたというのに。 迷 惑をかけないようにがんばるというのは、私は他人を助けないと自慢するのと同じこ とだ、と日頃は馬鹿にしていたというのに。
困ったら明示的に助けを求めないと、ここでは誰も助けてくれないのではないか。 困っているのに助けを求められなかったのは、もしかしたら、私が社会というものを 信用してないからなのかな (p34 )
思い出せ私、フィンランドでは、保護者の仕事があるから保育園に預けているんじゃない。子どもが教育を受けるためなんだ。親の仕事<超えられない壁<子どもの教育、なんだ(たぶん)。(p55)
三月・四月に通ったあの街なかの保育園では、私たちはたくさん配慮してもらった。 でも、それは、あの保育園の園長先生が親切な人だったからだとか、ソフィア先生や アントニ先生やよしえ先生といった個々人の情熱や優しさに支えられていたというよりは、園児に対する保育士/教員の数や、自治体が保育園に対してしなければならないことの違いに支えられていたのではないか。
別の言い方をすると、保育の質が個々の保育園や保育士に左右される度合いが低いように感じるのだ。京都の保育園とヘルシンキの保育園とで、先生方と保護者の「頑張ってる度合い」がかなり違う、とも言える。
京都で通っている保育園は、いろんな意味で、子どもたちが日中を過ごす場というだけでなく、保護者の共同体でもある。それは、保育園が労働者のための施設であることと、おそらくつながっている。 保育園だけを比較するなら、おそらく京都の保育園のほうが、子どもと親を育てる共同体としてのスキルの蓄積と保護者・保育士・経営者の団結力と友情において、この、ヘルシンキの畑の真ん中にある保育園より優れているように感じる。
でも、そんな共同体も、保育園の先生たちの情熱や努力も、保護者の熱意や協力も、 もしかすると必要ないのかもしれない。保護者の労働時間が短く、保育が労働者の福 利厚生ではなく子ども個々人の権利として制度化されているならば。そして皆がある 種の「あたたかさ」を求めないのであれば。 (p96)
保護者として三つか四つの保育園を見ているだけに過ぎないけれども、私は「日本の教育は集団主義的」というのは、単に教員の数が子どもに対して足りていない(教員・保育士が一人でたくさんの子どもを監督しないといけないから、指示的にならざるを得ない) からではないかと思いつつある。先生方に時間と人員の余裕がない以上、子どもを教師の指示に従わせるのが理にかなった指導になってしまうのではないだろうか。
だから、先生方と教育現場にもっと時間と人とお金の余裕があれば、「日本文化」 みたいに言われがちな集団主義も変わるかもしれない。(p106)
私は、子育てが負担なのではないのだ。大変なことも多いけれど、子どもを育つのを見るのは面白い。何より、私が子どもを愛する量より、子どもが私を愛する量のほうがずっと多い(...)。
忙しくても、子どもたちを通じて私が経験することも多いし、そこから示唆を得ることもある。 子どもたちがいなければ、この文章も書けなかった。 トータルしたら十分、もとはとっている。
私は、自分がこの人たちにひどいことをしてしまうことと、その権能が自分にあることが嫌なのだ。子どもが親にしか頼れないのなら、親の権力はなんと巨大だろう。
子どもを産んでも産まなくても、育てても育てなくても、どういうふうに育てても、 どこかから何か批判されたり嫌なことを言われたりするなら、誰が子育てなんてしたいと思うだろう。毒親を大量生産する仕組みが、近代化と一括りにざっくりと呼ばれてしまう仕組みの変化の中にあるから、こんなに家族が問題にされるのではないのか。(p152)
私はずっと、自分の両親に高い下駄を履かせてもらっておきながら、それを自分の才能と勘違いしていた。その高い下駄の、特に父から履かせてもらった分は、私の伯母たちの児童期からの労働でできている。(p187)
では、フィンランドと日本を比較するとき、私たちは何をしたいのだろうか。 共通する何かの要素を見つけ出したいのだろうか。見つけ出してどうしたいのだろうか。何と何が「同じ条件」なのだろうか。国家であること? 民主主義体制をとっている こと? 市場経済であること? 福祉制度が整っていること? 比較を通じて何かを 知りたいのなら、何について、なぜ比較するのか、前もってある程度は考えておくほうがいいだろう(常識的に考えて)。 (p259)
フィンランドの社会福祉は普遍主義に基づいている。つまり、公的サービスが広く薄く行き渡っていて、すべての人々が社会保障および社会福祉・保健サービスへの共通かつ平等の権利を持つ。
言い換えれば、誰もが社会福祉制度のお世話になるのであって、社会福祉制度を利用するのは「困っている人」ではない。もっと言い換えれば、公助は「世間のお世話 になる」ことではなく、「高い税金を一部還元してもらう」とか「貯金する代わりに、いざというときのためのお金を税金として持っていかれる」とかいった感じに近い。これは福祉サービスを受ける敷居がとても低いことを意味する反面、受けられるサービスがそれほど素晴らしく手厚いものでもないことを示す。(p263)
だから、子どもは、世間というか人様というか、公に迷惑をかける存在ではないのだ。というか、公というのは「迷惑」の対象ではなく、私が利用する対象だ。私に背くものが公ではなく、公のために私が我慢しなければならないのではない。
私は税金の形ですでに公に奉仕し、公はそれをだいたい全員に配分する。配分を受ける量が少ない人(例えばその年たまたま健康で医療にかからなかった人)は、税金が戻ってくる。公は、多様な幸福を追求する個別の私のためにある。 (p264)
ストライキだけではない。誰かを「迷惑だ」と思うことで、もしかして私たちは、 連帯して解決できるはずの事柄を見逃しているのかもしれない。 それはもしかして、とても孤独なことではないだろうか。いろんな人たちと、そのときどきに、目的のために連帯したくないというなら、連帯するより誰かからの指示に従うことを選ぶなら、 たしかに私たちの社会は、とても孤独で苦しく、生きづらい場所かも知れない。
いや連帯とか協力とかめっちゃめんどくさいし、そんな時間の余裕なんかねーよ、 運動とかできるやつはそれだけで貴族だろ、って突っ込まれると思うけど。でも忙しくて自分が社会に働きかけられないぶんまで、別のところでがんばってくれている人たちがいる。その人たちを、忙しい自分たちが、わざわざ攻撃する必要はない。
運動はみんなでやるものだ。社会はみんなで作ったり作り替えたりするものだ。 普通の人々が、普通の会話を交わして、普通の結論に至る。そういうどこにも特別なことのないやりとりを繰り返して、普通の無数の人々が法律や制度やその運用のされ方 や、それらの背景にある知識と規範を変えてきた。 (p270)